銀魂最終長編を語ろう3 ラスボスが「吉田松陽先生」である意義

 

 

さて、前章まで年齢の話をしてきましたが、すべてはこの章のためです。

 

 

 

 

なぜラスボスが、主人公の師匠である「吉田松陽」だったのか。

 

 

 

天導衆でも良かったのではないか。高杉晋助でも良かったのではないか。

 

松陽先生の処刑は、悲劇として終わって良かったのではないか。

 

 

私は、銀魂の本当のラスボスとして「吉田松陽」を登場させたことには、大きな意味があったと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漫画において「学校」や「スクール」が出てくるのは珍しくありません。(ほとんどの漫画が学校的な何かを踏んでいるようにも思えます。)

 

それは「学校」が日本国内ではほぼすべての人が通ったことがあり、共感が最も得やすい舞台設定であるからでしょう。

 

 

そして、漫画における「師匠キャラ」とは生徒を教え導いたのち、いつの間にか前線をひいていることが多いものです。

 

たとえ一緒に戦ったとしても、多くは成長した主人公が圧倒的に強く、補佐的な役割になっていきます。ナ〇トのカカシ先生が良い例でしょうか。

 

スポーツ漫画では顧問の先生など、監督以外でほとんど活躍の場はありません。

 

「先生」「師匠」という存在は、多かれ少なかれ主人公たちを見守り時が来たら退場するか、最後に少し力を貸してくれる存在として描かれがちです。

 

 

 

 

 

 

 

そう考えたとき、「吉田松陽」という人物が如何に特殊なキャラクターかが分かります。

 

 

 

彼はアルタナを食らう不死者、星海坊主でも敵わない圧倒的な力、天照院奈落の首領であり多重人格など、胃もたれするほどとかく設定が盛られたラスボスとなりました。

 

敵として登場するときには「虚」という存在になっていますが、本質的には銀時、桂、高杉の先生です。(詳細は略します)

 

銀魂最終章は、その「先生」を助ける(不死の輪廻から解放する)ための物語でした。

 

20代後半のいい大人が、10年以上前に世話になった恩師を助けるために、剣を取るのです。

 

 

 

さて、ここで本題です。

 

なぜラスボスが、主人公の師匠である「吉田松陽」だったのか

 

はい、皆さんご一緒に。せーの!

 

 

 

 

 

 

結論:大人である坂田銀時を「成長」させるため

 

 

 

 

ですよね~!知ってた!!!!!!!

 

 

銀魂」とは、坂田銀時という主人公の「人生の一部」であり、生きている限り人間は「成長」します。

 

ストーリー漫画として終わるには、彼は否が応でも「成長」しなければなりませんでした。

 

 

前章で述べたとおり、主人公坂田銀時は物語開始時点で既に「大人」であり、肉体的精神的に完成され、みんなの憧れの対象として描かれてきました。

 

そう描かれたから、残念ながら彼には「子どもから大人への成長」の余地はありません。

 

新八や神楽は二年の時を経て成長しましたが、銀さんは変われない。

 

万事屋の中で最も成長していない、変化できないのが、銀さんなのです。

 

 

 

 

肉体的精神的に成熟しきった大人である坂田銀時が唯一残していた、成長の余地。

 

 

それはやはり「過去」に他ならないのです。

 

 

救えなかった松陽先生、袂を分かったままの幼馴染み高杉晋助

 

どちらも銀さんにとっては深く心に刻まれた傷でした。これらを放置しては、坂田銀時の人間としての成長は望めなかった。

 

 

つまり銀魂の最終章は、主人公坂田銀時の過去の清算であり成長物語であったわけです。

 

 

松下村塾坂田銀時」「吉田松陽の弟子」と名乗り始めた頃から、彼の少年時代への回帰が始まり、そこから最終話に至るまでで、坂田銀時は「過去」に残したものを精算していきます。

 

高杉と死闘を経て和解し、虚を倒して松陽先生を救おうをする姿には、今まで以上の青臭さ、若々しさとひたむきさを感じます。

 

 

「コイツらと万事屋やってんだ」という彼の言葉は、親代わりだった松陽先生へ「ちゃんと大人になった」という報告であり、本当に「成長した」瞬間なのでしょう。

 

 

ラスボスが「吉田松陽」であった意義は、ここにあるのだと思います。