銀魂最終長編を語ろう4 二年後は必要だったのか ~銀魂を物語論的に語ってみる~

前章ではラスボスが「先生」であった意義について記述しました。

今度は、銀魂最終章を物語論的視点から考えて見たいと思います。

内容としては前章から繋がっていますが、読まなくても大丈夫です。

 

 

たぶん皆さんお気づきのことだと思うので、今さらだと感じた方はこの記事のことは忘れてください。

あくまで一意見なので、ああー、そういう解釈もあるのねと楽しんでいただけたら幸いです。

 

 

今回は少し長くなります。 

さて、よろしいでしょうか。始めますよ。

 

 

 

 

 

 

二年後は必要だったのか ~銀魂物語論的に語ってみる~

 

 

 

 

 

皆さん、銀魂の最終章を読んでいたとき何度も感じませんでしたか。

 

 

いつ終わるんだ??????

 

 

と。

 

 

 

最終回詐欺はアニメ銀魂お家芸で、実は最終章まで原作では最終回詐欺をしたことはなかったそうです。

週刊で終わらず、GIGAで終われず、ついにアプリまで配信を遅らせて完結した銀魂

完結当時はYahooニュースのトップでしたね。職場で読みました。

 

 

 

ですが、私が気になった「いつ終わるんだ?」はそこじゃなかったんですよ。

 

 

 

何が気になるって、銀魂には明らかに最終回が二回存在していることです。

 

 

 

1回目は宇宙戦争篇、アメノトリフネが地球に落下したとき。

2回目は伝説の704訓、本当の最終回です。

 

 

 

あれ(1回目)、終わるって思いましたでしょ?

 

私はリアルタイムでは読んでなかったので完結は別にあると知った上で読みましたが、それでも「ここで終わらなきゃいつ終わるの?」と思いましたもの。

 

 

今までのキャラクターがみんな味方について、

宇宙の上では幼馴染みたちが力を合わせて戦って、

地上では真選組、神楽一家も巻き込んでの大乱闘。

 

 

まさにパーティー、お祭り騒ぎ。スマッシュブラザーズです。

 

 

それがまさかの、虚逃亡からの二年後篇!!!!!!

 

 

 

本当になんで終わらなかったのか分からないくらいの盛り上がりでした。

空知先生はなぜアメノトリフネの段階で話を終わらせなかったのでしょうか。

 

 

 

ストーリー構成ミス?

伏線の回収ミス?

それとも集英社の引き延ばし戦術?

 

 

 

 

いえいえ、天才空知先生が何も考えてない訳がないじゃないですか!!!(絶大な信頼)

 

と、いうことでここからは銀魂を「ストーリー漫画」として、物語論的視点から考えていきたいと思います。

 

 

 


~「銀魂」は「ゆきて帰りし物語」の二重構造になっていた~

 

 

ゆきて帰りし物語

 

聞いたことがある人もいると思います。主人公がどこかに「行って帰る」ことで「成長」するという物語構造理論ですね。

 

人間はこの物語構造が大好きで、多くの神話にこの構造が見られます。

 

おおまかに書くと、

 

  1. 主人公がやむにやまれぬ事情で
  2. 日常の世界(元の場所)から
  3. 非日常の世界(別の場所)に旅に出て
  4. 困難を乗り越えて
  5. 成長して元の場所に戻ってくる

 

という流れのことですね。(実際はもっともっと複雑なものですが、これは銀魂なんちゃって考察なのでこのおおらかさでザックリ書いていきます。)

 

銀魂で分かりやすいのは洛陽編ですかね。
神楽を主人公とすれば、

 

  1. 神楽(主人公)は家族の再生(やむにやまれぬ事情)のために
  2. 万事屋(元の場所)から
  3. 実家のある烙陽(別の場所)に戻り
  4. 兄神威に立ち向かい(困難の乗り越え)
  5. 家族を作り直して万事屋に戻ってくる(成長と帰還)


5の時点で神楽も神威も成長し、今まで殺し合う関係でしかなかった父兄妹の関係に大きな変化が生じましたね。

 

 

で、何が言いたいかというと。

 

  •  最終章は坂田銀時の「ゆきて帰りし物語」なのではないか。
  • 銀魂のメインストーリーにおいてこの「ゆきて帰りし物語」が、主人公坂田銀時を中心に二重になっていたのではないか。
  • だからアメノトリフネの段階で終わることが出来なかったのではないか。


ということです。

 

説明します。

 

 

1 この最終章は坂田銀時の「ゆきて帰りし物語」なのではないか。

 


これは説明がかなり容易な話で、結論から言うと銀魂の最終章は

 


1 坂田銀時が(主人公が)
2 日常の世界(元の場所=かぶき町)から
3 非日常の世界(別の場所=黒縄島や烙陽など)旅に出て
4 虚を倒し(困難の乗り越え)
5 かぶき町に戻ってくる(成長と帰還)

 


という構造になっています。 


銀魂の最終章の「ゆきて帰りし物語」は明らかに「かぶき町の万事屋」が出発点であり、帰る場所です。


つまり万事屋坂田銀時は、

 

1 万事屋坂田銀時
2 かぶき町の万事屋から
3 黒縄島、烙陽などへ旅に出て
4 虚を倒し
5 かぶき町の万事屋に戻ってくる

 

というストーリーを歩んでいたはずなんです。

 

 

しかし、それならアメノトリフネの段階で終われるんですよね。

 

 

ていうか、終わらないといけないんですよね。

 

 

 

 

 

アメノトリフネを高杉、桂、坂本らが止めた段階で、話としてはもう「4 虚を倒す」という「最大の試練」を残すのみなんです。

 

 

最大の敵対者(ライバル)である高杉が銀時を激励するのも、

絆の深い真撰組の面々が全力で助けに来るのも

神楽の家族や春雨が集結するのも

 

 

全て「最大の試練」を克服するための布石ですよね。

 

 

主人公坂田銀時これまで繋がりを持った全てのキャラクターの力を借りて、虚を倒し、間接的に松陽先生を救う…………

 

 

 

 

 

 

…………出来たんじゃないかと思いませんか。

 

それも、これ以上ないくらいの終わり方になったんじゃないですか?

 

 

万事屋坂田銀時にとっては。

 

 

 

 

そうなんですよ、万事屋坂田銀時ならそれで平和な「日常の世界=かぶき町」に戻ってこれるんですよ。

 

 

でもダメなんです。

 


このときの主人公は万事屋坂田銀時だけではなく、

 

 

 

松下村塾坂田銀時でもあったからです。

 

 

 

 

 

2 主人公坂田銀時を中心した「ゆきて帰りし物語」の二重構造について

 


万事屋坂田銀時にとって、守るべき、戻るべき場所はかぶき町だったでしょう。

 

しかし、一個人の坂田銀時にはほかにも守るべき大切な「元の場所」があった。

 

 

それが松下村塾です。

 

 

坂田銀時の人生は松下村塾から始まります。

彼が高杉、桂と攘夷戦争に参加したのは「先生を救うため」です。

このことは「ゆきて帰りし物語」の基本構造で考えれば、「主人公がやむにやまれぬ事情で」「日常の世界から」「非日常の世界に旅に出る」構造となります。

 

ということは、松下村塾坂田銀時もまた日常の世界に帰還する必要があり、そのためには「困難を乗り越えなければならない」のです。

 

 

坂田銀時の「ゆきて帰りし物語」を、この松下村塾」起点で考えるとこのようになります。

 


1 松下村塾坂田銀時(主人公)が
2 松下村塾(日常の世界)から
3 江戸(非日常の世界)に出て
4 松陽先生を取り戻して(困難の乗り越え)
5 松下村塾に帰ってくる(成長と帰還)

 

この構造は坂田銀時の人生そのものといっても過言ではないでしょう。

 

この場合、攘夷戦争から江戸に至るまで、つまり万事屋やかぶき町は3の「別の場所」になるんですよね。

 

ここに「万事屋坂田銀時」の物語構造を並べると次のようになります。

 

1 松下村塾坂田銀時
2 松下村塾から
3 江戸に出て
4 松陽先生を取り戻して
5 松下村塾に帰ってくる

  

(1) 万事屋坂田銀時
(2) かぶき町の万事屋から
(3) 黒縄島、烙陽などへ旅に出て
(4) 虚を倒し
(5) かぶき町の万事屋に戻ってくる

 

 

この万事屋の物語は全て、江戸を起点に起こっていることです。

 

つまり松下村塾起点の物語の中に、万事屋起点の物語が入れ込まれている状態なんですね。

 

 

もしもアメノトリフネで終わった場合、(1)~(5)万事屋起点の物語は完成されますが、1~5の松下村塾起点の「ゆきて帰りし物語」が完成されません。

 

 

 

なぜなら地上には、松下村塾の重要な要素である高杉晋助桂小太郎も揃ってなかったのですから。

 

 

 

坂田銀時にとって松下村塾とは松陽先生のことだけではなく、この幼馴染みたちの存在が大きかったことは将軍暗殺篇から明らかです。

 

松下村塾坂田銀時にとって戻るべき場所、日常の世界である「松下村塾」とは、師「吉田松陽」、友「高杉晋助」「桂小太郎」がいてこその場所だったはずです。

 


だから、アメノトリフネ時点では松下村塾的に役者が全然揃ってなかったわけです。

 


特に高杉晋助とはほとんど殺し合いの死闘を演じてから別れてます。(高杉がちょっと良いこと言ったからって帳消しにはなりませんよ。)
彼との決着をつけて、目に見えて和解しないと「日常の世界」とは到底言えないでしょう。

 

 


結論

 

アメノトリフネ時点では「万事屋坂田銀時」の物語は完結できるが、「松下村塾坂田銀時」にとっては舞台が完成していなかった。

 

だから、物語を終わらせることが出来なかった。

 

つまりあの二年後篇は「松下村塾坂田銀時」の物語を完結させるために必要だったと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

はい、いかがでしょうか。

 

 

まあ、二年後が始まったのは取りこぼした伏線が多すぎたってのが主な理由かもしれませんが、こう考えるのも面白いかなと思っています。

語りたいことが語れて私は満足しています!(笑)

 

 


次章からは「高杉晋助」について考察したいと思います。

本記事では松下村塾の役者が揃ってなかったとか書きましたけれども、正直アメノトリフネで終われなかったのは98%は高杉のせいだと思ってます。桂は悪くない。

その理由は次章で。

 

 

 

 

 

銀魂最終長編を語ろう3 ラスボスが「吉田松陽先生」である意義

 

 

さて、前章まで年齢の話をしてきましたが、すべてはこの章のためです。

 

 

 

 

なぜラスボスが、主人公の師匠である「吉田松陽」だったのか。

 

 

 

天導衆でも良かったのではないか。高杉晋助でも良かったのではないか。

 

松陽先生の処刑は、悲劇として終わって良かったのではないか。

 

 

私は、銀魂の本当のラスボスとして「吉田松陽」を登場させたことには、大きな意味があったと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

漫画において「学校」や「スクール」が出てくるのは珍しくありません。(ほとんどの漫画が学校的な何かを踏んでいるようにも思えます。)

 

それは「学校」が日本国内ではほぼすべての人が通ったことがあり、共感が最も得やすい舞台設定であるからでしょう。

 

 

そして、漫画における「師匠キャラ」とは生徒を教え導いたのち、いつの間にか前線をひいていることが多いものです。

 

たとえ一緒に戦ったとしても、多くは成長した主人公が圧倒的に強く、補佐的な役割になっていきます。ナ〇トのカカシ先生が良い例でしょうか。

 

スポーツ漫画では顧問の先生など、監督以外でほとんど活躍の場はありません。

 

「先生」「師匠」という存在は、多かれ少なかれ主人公たちを見守り時が来たら退場するか、最後に少し力を貸してくれる存在として描かれがちです。

 

 

 

 

 

 

 

そう考えたとき、「吉田松陽」という人物が如何に特殊なキャラクターかが分かります。

 

 

 

彼はアルタナを食らう不死者、星海坊主でも敵わない圧倒的な力、天照院奈落の首領であり多重人格など、胃もたれするほどとかく設定が盛られたラスボスとなりました。

 

敵として登場するときには「虚」という存在になっていますが、本質的には銀時、桂、高杉の先生です。(詳細は略します)

 

銀魂最終章は、その「先生」を助ける(不死の輪廻から解放する)ための物語でした。

 

20代後半のいい大人が、10年以上前に世話になった恩師を助けるために、剣を取るのです。

 

 

 

さて、ここで本題です。

 

なぜラスボスが、主人公の師匠である「吉田松陽」だったのか

 

はい、皆さんご一緒に。せーの!

 

 

 

 

 

 

結論:大人である坂田銀時を「成長」させるため

 

 

 

 

ですよね~!知ってた!!!!!!!

 

 

銀魂」とは、坂田銀時という主人公の「人生の一部」であり、生きている限り人間は「成長」します。

 

ストーリー漫画として終わるには、彼は否が応でも「成長」しなければなりませんでした。

 

 

前章で述べたとおり、主人公坂田銀時は物語開始時点で既に「大人」であり、肉体的精神的に完成され、みんなの憧れの対象として描かれてきました。

 

そう描かれたから、残念ながら彼には「子どもから大人への成長」の余地はありません。

 

新八や神楽は二年の時を経て成長しましたが、銀さんは変われない。

 

万事屋の中で最も成長していない、変化できないのが、銀さんなのです。

 

 

 

 

肉体的精神的に成熟しきった大人である坂田銀時が唯一残していた、成長の余地。

 

 

それはやはり「過去」に他ならないのです。

 

 

救えなかった松陽先生、袂を分かったままの幼馴染み高杉晋助

 

どちらも銀さんにとっては深く心に刻まれた傷でした。これらを放置しては、坂田銀時の人間としての成長は望めなかった。

 

 

つまり銀魂の最終章は、主人公坂田銀時の過去の清算であり成長物語であったわけです。

 

 

松下村塾坂田銀時」「吉田松陽の弟子」と名乗り始めた頃から、彼の少年時代への回帰が始まり、そこから最終話に至るまでで、坂田銀時は「過去」に残したものを精算していきます。

 

高杉と死闘を経て和解し、虚を倒して松陽先生を救おうをする姿には、今まで以上の青臭さ、若々しさとひたむきさを感じます。

 

 

「コイツらと万事屋やってんだ」という彼の言葉は、親代わりだった松陽先生へ「ちゃんと大人になった」という報告であり、本当に「成長した」瞬間なのでしょう。

 

 

ラスボスが「吉田松陽」であった意義は、ここにあるのだと思います。

 

銀魂最終長編を語ろう2 坂田銀時が「大人」である理由を考える

 

 

 

銀魂最終長編を語るために、まず書きたいことがあります。

 

 

 

銀さんの年齢のことです。

 

 

 

銀さんの年齢は作中ではっきりと明示されていません。

(生年が分からないからでもあるけれど)

 

 

20代という大まかな設定と、近藤勲(28)、土方十四郎(27)との付き合いの様子、日々の言動からおそらく20代後半(初登場の段階で27~29、二年後で29~31?)あたりと推測できますがそれ以上はわかりませんね。

 

普通の人間だったら「そろそろ10代とは違うなあ」と思い始める年齢だと思います。

 

 

作者の空知先生も何度か言及されていますが、銀さんは「大人の」主人公なんですよね。

 

 

 

 

どうして坂田銀時は大人設定だったのでしょうか?

 

少し考えてみようと思います。

 

 

 

 

銀魂が長年連載されていたのは週刊少年ジャンプ、それ故に、掲載される漫画の主人公はその多くが10代の少年少女です。

 

 

理由はいくつか考えられます。

 

 

ひとつ目は、「読者層が10代の中高生から20代の若年層が主体」であること。

 

 

主人公の年齢が近ければ、彼らの共感が得られます。(誰でも1回くらいはオリジナルキャラクターを妄想したりしませんでしたか?私だけですか?)

 

もっと言えば「学校」「部活動」「先輩後輩」といった中高生に身近な舞台設定を取り入れられます。スポーツ漫画や恋愛漫画などが典型的な例でしょうか。

 

 

 

 

ふたつ目は、「成長という変化」がストーリー漫画の醍醐味だという点でしょう。

 

 

 

作中の時間が流れる漫画であれば、多かれ少なかれ時間経過と共にキャラクターに変化が起きます。我々読者はその変化を楽しんでいるわけですね。

 

 主人公たちが10代であれば、そこから20代に入るまで数年間分の著しい成長を描写することが出来ます。

 

特にバトル描写のある漫画では顕著ですね。

 

敵を倒すため修行して強くなり、また強敵が出てきて……といった繰り返しの中に、確かに主人公たちの成長を感じられます。

 

 

 

このようなことから、ジャンプのバトル描写のある漫画において、最初期から主人公が20代後半の大人で、パチンコや深酒をしてゲロを吐くダメ人間に設定されているのは極めて珍しいと言えるのではないでしょうか。

 

 

では、銀魂の主人公坂田銀時が「大人」だったのはなぜか。

 

 

 

私は、大人の格好良さとしての「」を描くためだったのではと思います。

 

 

 

普段の坂田銀時は、どこか飄々としてつかみ所のないキャラクターです。

 

確固たる目標もなく、日々を生きる一市民。パチンコに夢中になったり、女子アナのフィギュアを持っていたり、従業員の給料を払わなかったり意地汚かったり。

 

 

おおよそ少年少女の憧れとはほど遠いです。

 

 

しかし、シリアス展開では打って変わって、彼はあらゆる困難を乗り越え、弱い者を助ける真のサムライとして描かれています。

 

初期の新八などはいつも銀さんに助けを求めているし、作中のキャラクターは何かあると必ず銀さんに助けを求め、銀さんを信じて力を貸しています。

 

そして銀さんも、必ずその要求に応えるのです。

 

 

弱きを助け、強気を挫く。

 

 

これをヒーローと言わずして何というのでしょう。

 

 

平時のだらけっぷりが嘘のように決めるところできっちり決める。

世の中や人情の機微を理解し、筋を通すことが出来る。

 

 

坂田銀時はそういう「」を体現した男なのです。

 

 

 

物語開始時点で坂田銀時は、一本筋の通った強い男性であり、絶対倒れない大将であり、みんなを導くリーダーの役目を担うことになっていた。

 

そのためにはこれから成長する少年ではなく、大人の格好良さ、「粋」とはなにかを知る「成熟した大人」である必要があったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

銀魂最終長編を語ろう1 はじめに

 

本ブログは、最終回を向かえた銀魂10年ぶりに読んだら心がざわついてしまったシリアス大好き侍による、銀魂最終長編のストーリー・キャラクター考察・感想になります。

 

 

【注意事項】

  • なんちゃって考察
  • アニメになっていない二年後篇その他盛大なネタバレ
  • 正史は原作ということで
  • 筆者はロクデナシ推し
  • 異論を認める
  • が、中傷は断る

 

よろしくお願いします! 

 

 

 

 

1 はじめに

 

 

銀魂の最終長編にはファンの間で賛否両論があるようですね。

(にわかなので調べるまで知りませんでした。)

 

色々な意見を読み、そうだなあと同意できることがいくつかあったので最初に紹介します。

 

 

 

  1. 引き延ばしによる最終長編のまとまりのない動騒感
  2. 二年後は蛇足=宇宙戦争最終回説
  3. 急なストーリー変更(烙陽編での高杉の生存など)による若干の違和感
  4. 後付け設定のような不自然なキャラの登場・場面の挿入
  5. 特定キャラクターの贔屓に見える出番増加

 

 

 

 

確かになあ!!!なるほど!!!!!!

 

 

 

個人的には最終長編すごく良かったのですが言われてみれば確かにね。

 

最終章って正確にはどこから始まるのでしょうか。

 

個人的にはバラガキ篇辺りか、と思っているのですが高杉の動向を調べると310訓つまり単行本36巻辺りから布石が打ってある様子なんですよね。

 

つまり物語のまるまる半分くらいは最終章と。

 

 

…………最終って何だっけ??

 

 

 

 

 

 

 

さて、ここからは少し真面目に。

 

 

 

皆さんご存じの通り、本来「銀魂」は1話完結型のギャグ漫画です。

 

初期段階では、シリアス展開がこれほど続くことになるとは考えられていなかったでしょう。

 

 原作者の空知英秋先生も「エンディング、まだ思いつかない」と漫画の中で嘆いておられたことがあります。

 

それを鵜呑みにするかはさておき、おそらくあの長大なストーリーは、最終回を迎えるに当たってあちこちに広げきった風呂敷を取りこぼさずに丁寧に畳もうとした結果なのだと思われます。

 

その辺りは00年代のジャンプ漫画らしいです。

昨今の20巻前後で上手に完結する漫画とは異なりますね。

 

当たり前ですが、長期連載漫画の場合、どうしても後付け設定とか強さのインフレとか初期との矛盾が増える傾向があります。

 

銀魂の場合ですと、元がバトル漫画ではないので戦闘のインフレは少なかったかと思います。

 

しかし、初期はいなかった超重要キャラクターが突然登場したり(今井信女とか夜右衛門とか)天導衆の扱いが変わっていったりしましたね。

 

地味に銀さんの外傷耐性も上がっています。(紅桜篇あたりではたった一撃で戦闘不能になっていますし)

 

まあそのあたりは、銀魂みたいな自由な世界設定で10年以上も連載していたら仕方がありません。

 

 

 

次章からはシリアス好きの視点から銀魂最終長編を語っていこうと思います。

 

このさい細かい部分には目をつぶることにして、「最終長編時での設定が物語の根幹にあった」という立場で書いていきます。

 

 

 

一個人の思いの丈や解釈を遠慮なく書き込んでいます。

読まなくても人生に支障はいっさいございません。

 あ、無理!解釈合わない!と思われたら、遠慮なさらずブラウザバックしてください。そしてこの記事のことは忘れてください。

 

私は全世界の銀魂オタクそれぞれの解釈を尊重します。

 

みんな語ろうぜ!!!!!!!!!!!!!